京都観光 満足ガイド協会

京都観光 満足ガイド協会 京都検定を取得した京都通のタクシードライバーが、観光のプランニング? 京都商工会議所公認の『京都検定』に合格したタクシードライバーの教育・研修組織を2008年に発足しました。
現在、『京都検定合格者』を協会員とし、『京都検定未所持者』のために「京都歴史文化研究会」を組織して、30余名が切磋琢磨しています。

かつての京都への街道の入口「京の七口」の一つ、鞍馬口の地にひっそりと佇む寺があります。閑臥庵です。「かんがあん」と呼びます。この地にはもと梶井常修院の宮がありましたが、江戸時代前期に後水尾法皇が王城鎮護のため貴船奥院より陰陽道最高とされる神...
21/07/2014

かつての京都への街道の入口「京の七口」の一つ、鞍馬口の地にひっそりと佇む寺があります。閑臥庵です。「かんがあん」と呼びます。この地にはもと梶井常修院の宮がありましたが、江戸時代前期に後水尾法皇が王城鎮護のため貴船奥院より陰陽道最高とされる神鎮宅霊符神を勧請し、万福寺の千呆禅師を開山として寺としたのが始まりと伝わります。小さな境内に堂宇は本堂と鎮宅堂ほどですが、鎮宅堂には安倍晴明ゆかりの鎮宅霊符神の神像が祀られ、本堂には龍の天井画や近年チベット密教の高僧により作られた珍しい砂曼荼羅や興味深い寺宝などが観覧出来ます。また、本堂までの小さな参道はなかなか趣きがあり、境内に併設される普茶料理の建物の周囲にも美しい小庭園が散在します。近年、境内入口付近に羅漢石像が建ち並び境内に誘います。寺としてより普茶料理の店としてご存知の方もおられるでしょう。最終の画像は店の一間から窓越しに見た庭園の風景です。

今回の画像は京町家の佇まいシリーズの第四弾、虫籠窓です。「むしこまど」と呼びます。虫籠窓とは厨子(つし)二階部分の道路に面した窓の様式で明治期までの京町家に多く見られます。太い格子に土壁を塗った上に主として漆喰で固めた特徴があります。類焼か...
09/07/2014

今回の画像は京町家の佇まいシリーズの第四弾、虫籠窓です。「むしこまど」と呼びます。虫籠窓とは厨子(つし)二階部分の道路に面した窓の様式で明治期までの京町家に多く見られます。太い格子に土壁を塗った上に主として漆喰で固めた特徴があります。類焼からの防火の働きをするそうです。京都の古い町並みを通る道幅は昔も今も狭く、建物も密集していますから火災は大敵でした。そこで考えられた様式なのですね。そして、厨子(つし)二階とは、屋根裏部屋のことで中二階とも呼ばれ、今風に言うとロフトといったところでしょうか。最終9枚目の画像は、虫籠窓から厨子(つし)二階の内部から撮影しました。室内に入り込む独特の光のシルエットですね。子供達にとっては隠れ家のような存在だったと思います。京町家の佇まいシリーズ、次回からは坪庭や箱階段やはしりなど家屋内部にスポットを当てる予定です。

境内に多くの塔頭が建つ妙心寺、その中で常時、拝観出来る塔頭は多く有りません。今回、ご紹介するのは退蔵院です。1404年(応永11年)、越前の国の豪族・波多野重通(はたのしげみち)が妙心寺第三世・無因宗因(むいんそういん)を開山として千本通松...
30/06/2014

境内に多くの塔頭が建つ妙心寺、その中で常時、拝観出来る塔頭は多く有りません。今回、ご紹介するのは退蔵院です。1404年(応永11年)、越前の国の豪族・波多野重通(はたのしげみち)が妙心寺第三世・無因宗因(むいんそういん)を開山として千本通松原に創建し、のちに妙心寺山内に移された歴史を持ちます。境内に入ってすぐに方丈がありその前には、小ぶりですが狩野元信作庭と伝わる味わいのある枯山水庭園あり印象に残ります。そして、境内奥には昭和の小堀遠州と言われる造園家、中根金作による池泉回遊式庭園の「余香苑」が美しく広がります。余香苑は大刈込みの間から三段落ちの滝が流れ落ち小川となりやがて大海に注ぐ様を表します。つくばいの下の水琴窟や獅子脅しなど随所に工夫が施された庭園で、全国でも有数の昭和の名庭と言われています。また、方丈には室町時代の水墨画の始祖といわれている如拙の描いた禅画・瓢鮎図(ひょうねんず)が掲げられます。室町幕府4代将軍・足利義持の命により心血注いで描かれたもので、比較的小さいものではありますが日本の初期水墨画の代表作の一つとされます。瓢箪でどのように鯰を捕まえるかと言うおよそ不可能な問いかけを描いたもので上部や下部には多くの禅僧による賛が書き加えられています。ただし、国宝のため原画は国立博物館に寄託されおり日常は複製となります。

③龍谷大学大宮学舎本館・・・七条猪熊上ったところに龍谷大学発祥の地である大宮学舎があります。その中央にひと際美しく建つのが本館です。1879年(明治12年)に竣工し、石の柱が建ち並び、一見、石造に見えますが、実は木造で石材を木製の柱に貼り付...
18/06/2014

③龍谷大学大宮学舎本館・・・七条猪熊上ったところに龍谷大学発祥の地である大宮学舎があります。その中央にひと際美しく建つのが本館です。1879年(明治12年)に竣工し、石の柱が建ち並び、一見、石造に見えますが、実は木造で石材を木製の柱に貼り付けて石造に見せ掛けています。このような様式は擬洋風建築と呼ばれています。明治維新後、西洋文明推奨の時勢のなか、西日本ではいち早く竣工した洋風建築であったため、明治天皇が行幸された歴史を持ちます。館内に入ると大きな窓の位置がずいぶん低いことに気付きます。床は現在、板張りでベンチが並んでいますが、かつては100畳敷の畳張りでした。畳に座って講義を受けていましたので、その姿勢や視線から窓の位置が低く決められたのでした。大宮学舎には本館の他にも、白亜の美しい壁が印象に残る校舎(当初は生徒寮)が本館を囲むように調和して建ち並びます。

この地には1264年(文永元年)、後嵯峨天皇が造営した禅林寺殿と呼ばれる離宮がありました。「禅林寺殿」の名は、当地の北に現存する禅林寺(永観堂)に由来します。のちの1291年(正応4年)、落飾(出家)して法皇となった亀山上皇は、東福寺の高僧...
03/06/2014

この地には1264年(文永元年)、後嵯峨天皇が造営した禅林寺殿と呼ばれる離宮がありました。「禅林寺殿」の名は、当地の北に現存する禅林寺(永観堂)に由来します。のちの1291年(正応4年)、落飾(出家)して法皇となった亀山上皇は、東福寺の高僧・無関普門の徳に深く帰依され開山として招きこの離宮を禅寺とされ禅林禅寺と名づけ正安年間(1299~1302年)に南禅寺と改められた歴史を持ちます。1393年(明徳4年)と1447年(文安4年)の火災や応仁の乱において伽藍の多くは焼失して、復興が進んだのは、江戸時代になって1605年(慶長10年)、徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝が入寺してからとなります。境内のスケールは大きく、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の「絶景かな」のセリフで有名な三門や法堂はとても重厚な佇まいです。また、国宝の方丈は御所の清凉殿が移築されたもので寝殿造の最も美しい姿を見せます。その内部には狩野永徳、元信、探幽らの画壇による有名な「水呑の虎」を始めとした襖絵が各間を飾り、周囲には屈指の枯山水として知られる小堀遠州作庭の方丈庭園を始め苔生した趣きのある多くの庭園があり回廊を渡りながら眺め楽しめます。そして、山内には明治維新後の遺構である琵琶湖疎水が流れるインクラインが通り、水路閣と呼ばれる赤レンガの水道橋が建ち独特の趣きを添えます。この事業、大河ドラマ「八重の桜」で登場する八重の兄で元会津藩士の山本覚馬らによって進められた明治維新により停滞した京都の復興のための事業の一つで、これにより水力発電を行い、その電力で京都に日本最初の路面電車を走らせました。三門に登るには別途拝観料\500が必要で急な階段を登らなければいけないがなるほど絶景が楽しめます。三門内部には釈迦坐像を中心に多くの仏像があり内壁には極彩色の図が描かれていますが残念ながら内陣までは入れないので欄干から格子越しの拝観です。

今回の寺社拝観の楽しみは、寺社のシンボルとして親しまれる塔です。見所の大御所かも知れませんね。さて、塔の語源はサンスクリット(梵語)のストゥーパ、積み上げるという意味とされます。古代インドにおいて盛り上げた土の塚(墓)のことを指し、内部に釈...
26/05/2014

今回の寺社拝観の楽しみは、寺社のシンボルとして親しまれる塔です。見所の大御所かも知れませんね。さて、塔の語源はサンスクリット(梵語)のストゥーパ、積み上げるという意味とされます。古代インドにおいて盛り上げた土の塚(墓)のことを指し、内部に釈迦や聖者に所縁の品、遺体の一部である遺骨(舎利と呼ばれます)や遺髪や歯など、いわゆる聖なる遺品・遺物を入れるようになりました。奈良市高畑町にある頭塔はその一例と言えるでしょう。そして、仏教には今日で言うところの「卒塔婆」の意味で採り入れられ、日本の仏教建築の木造では、五重塔、三重塔に代表される多重塔、そして通常、二重塔で一層目は四角、二層目は円形の構造をとる多宝塔などが建立されるようになります。また、石造では、密教での五大、すなわち、地・水・火・風・空を体現した五輪塔や、陀羅尼(だらに)と呼ばれる呪文を納めるための宝篋印塔(ほうきょういんとう)等が建つようになります。京都、滋賀の寺院で印象に残る塔を取り上げました。画像①は東寺の五重塔、画像②は岩船寺の三重塔、画像③は真如堂の三重塔、画像④は三室戸寺の三重塔、画像⑤は醍醐寺の五重塔、画像⑥は浄瑠璃寺の三重塔、画像⑦は法観寺の五重塔(通称、八坂の塔)、画像⑧は滋賀の長命寺の三重塔、画像⑨は宝塔寺の多宝塔、画像⑩は宮津の成相寺の五重塔、画像⑪は永観堂の多宝塔、画像⑫は耳塚の五輪石塔、画像⑬は盛り上げた土の塚の例として奈良市高畑町にある頭塔です。あと、画像では紹介出来ず残念ですが、仁和寺、海住山寺の五重塔も美しい姿でお勧めです。

南禅寺の境内、壮大な三門近くに建つ塔頭の一つ。天授庵です。1339年(暦応2年)、虎関師錬により南禅寺を開山した無関普門の塔所(墓所)として建立しました。南禅寺の開山塔に当たります。戦国時代には衰退しますが,1602年(慶長7年)に武将で歌...
12/05/2014

南禅寺の境内、壮大な三門近くに建つ塔頭の一つ。天授庵です。1339年(暦応2年)、虎関師錬により南禅寺を開山した無関普門の塔所(墓所)として建立しました。南禅寺の開山塔に当たります。戦国時代には衰退しますが,1602年(慶長7年)に武将で歌人としても知られる細川幽斎により再興されました。堂宇は方丈と書院のみであるが、方丈前庭は小規模ながら幾何学的な石畳を配した小堀遠州の発案による枯山水庭園で美しく印象に残ります。また、書院の南には池泉式回遊庭園があり変化に富んだ緑の中をゆっくりと巡れます。方丈には長谷川等伯の障壁画があり、内部から庭園を観賞したいところですが、内部は通常非公開なので少し残念です。

今回の画像は京町家の佇まいシリーズの第三弾、ばったり(ばったん)床几です。ばったり(ばったん)床几とは外壁に据え付けられた折りたたみ式の床几(ベンチ)です。標準的なサイズはだいたい1.5m前後でしょうか。使用しない時は外壁に折りたたみ使用す...
26/04/2014

今回の画像は京町家の佇まいシリーズの第三弾、ばったり(ばったん)床几です。ばったり(ばったん)床几とは外壁に据え付けられた折りたたみ式の床几(ベンチ)です。標準的なサイズはだいたい1.5m前後でしょうか。使用しない時は外壁に折りたたみ使用する時にはばったんと手前に倒すことから名前が付きました。外壁とほぼ同様の色合いでその存在をうっかり見落され気付かない方も多いと思います。近所の叔父さんたちが将棋や碁を打っていたり、夏場になると子供達が仲良くすいかを食べていたり、夜になると花火で遊ぶ姿が記憶に残っています。また、商家では商品を並べるなど屋外の陳列棚として利用していました。京都の町衆の工夫が生んだ素敵なコミュニケーション・ツールだったのですね。しかし、最近では折りたたまれて、あまり使われている姿を見掛けないのが残念です。昔のようにばったり床几で多くの人達が様々に繋がっている姿、是非、戻って来てほしいものだと思います。京町家の佇まいシリーズ次回の第四弾は、虫籠窓を予定しています。

東山、銀閣寺から南禅寺までを結ぶ哲学の道、この道の途中に禅林寺があります。通称である永観堂としてよく知られています。853年(仁寿3年)、弘法大師の高弟・真紹僧都によって真言密教の寺として創建され、その200年あまり後、永観(ようかん)律師...
22/04/2014

東山、銀閣寺から南禅寺までを結ぶ哲学の道、この道の途中に禅林寺があります。通称である永観堂としてよく知られています。853年(仁寿3年)、弘法大師の高弟・真紹僧都によって真言密教の寺として創建され、その200年あまり後、永観(ようかん)律師の時代に大きく発展し、更に後、法然上人が住持され浄土宗に改められます。やはり応仁の乱で焼失しますが後に再建されます。山内堂宇を回廊が巡り起伏に富んだ独特の景観で、珍しい螺旋状の「臥龍(ガリュウ)廊」と呼ばれる登廊もあり印象に残ります。小振りではありますが「永観遅し」と言って振り返ったと伝わる本尊の見返り阿弥陀如来立像は顔を左に90度(向かっては右に)向けた珍しい姿です。納められた厨子も正面だけでなく右側面にも扉があり横からも拝観出来ます。もとは聖武天皇のご本尊で東大寺の経蔵に納められていたのを律師が授かったと伝わります。さらに、「臥龍廊」の傍には水琴窟、周囲に広がるよく手入れされた庭園、釈迦堂の虎の間の長谷川等伯の筆による竹虎図襖絵、弁財天を祀る中の島の周囲に広がる美しい放生池など見所は満載です。また、鎌倉時代の仏画、国宝の山越阿弥陀図を所蔵しますが普段は未公開で少し残念です。そして、御影堂付近には葉先が三つに割れた珍しい「三鈷の松」があり、山門入ってすぐの売店でこの松を輪にしたものをお土産(無料です)に頂けます。お守りになると伝えられていますので、是非、申し出て持ち帰るのもよいでしょう。

②聖アグネス教会・・・烏丸下立売西入るの地に1898年(明治31年)、平安女学院のチャペルとして建設され、ゴシック様式でレンガ造りの建物です。決して大きくはありませんが、歴史を刻んだレンガが周囲の緑に包まれる風景は素敵です。立教学校の初代校...
05/04/2014

②聖アグネス教会・・・烏丸下立売西入るの地に1898年(明治31年)、平安女学院のチャペルとして建設され、ゴシック様式でレンガ造りの建物です。決して大きくはありませんが、歴史を刻んだレンガが周囲の緑に包まれる風景は素敵です。立教学校の初代校長ジェームズ・ガーディナーによる設計です。 ・・・ジェームズ・マクドナルド・ガーディナーについて・・・1857年~1925年、はアメリカ人で建築家であり教育者でもありました。1880年に来日し築地立教学校の校長に就任、後に立教大学校(St. Paul's College)を建設し、完成後校長に就任します。退任後は本格的に建築家としての人生を歩み始め、聖アグネス教会の他にも京都聖ヨハネ教会教会堂や外交官の家(現・横浜市中区の山手イタリア山庭園内に移築)や明治学院ヘボン館や函館遺愛学院本館など多くの建物の設計に携わりました。

東大路を北へ百万遍の北東角に建つのは知恩寺です。浄土宗の本山・知恩院はよく知られていますが、よく似た名の当寺はさほど知られていません。元は現在の相国寺の地に、皇円阿闍梨の住房・比叡山功徳院の里坊として、平安時代前期に円仁が創建したものと伝え...
30/03/2014

東大路を北へ百万遍の北東角に建つのは知恩寺です。浄土宗の本山・知恩院はよく知られていますが、よく似た名の当寺はさほど知られていません。元は現在の相国寺の地に、皇円阿闍梨の住房・比叡山功徳院の里坊として、平安時代前期に円仁が創建したものと伝えられます。賀茂社との関わりが深く、その神宮寺として賀茂禅房、或いは、円仁作とされる釈迦如来像が安置されていたことから今出川釈迦堂と呼ばれていました。のちに賀茂の神職から法然が招かれ草庵を結びます。法然の入滅後、弟子の源智上人が継ぎ、師の恩徳を偲び念仏の道場とし伽藍を整備し、のちの如空の時に知恩寺と改めます。その後、1382年(弘和2年)の相国寺建立により当地から幾つかの地を経て、1662年(寛文2年)、現在の地に移りました。境内は広大で今出川の南門に入ると参道がまっすぐ延び正面に壮大な御影堂、右手に釈迦堂、左手に阿弥陀堂が建ちます。御影堂に入ると正面に室町時代に造られた法然上人像があり、重さ320kg珠の数1080の巨大な数珠が吊るされ印象に残ります。近年、上人像の体内から上人の遺髪と遺骨が発見されました。他の堂は開扉されず内部で仏像を拝観出来ないのは少し残念です。又、釈迦堂前には全国で三基しかない阿弥陀経石があり、境内には土佐光起の墓、鳥居元忠の墓(塔頭龍見院内)などがあります。1331年(元弘元年)、京都は大地震に見舞われ疫病が蔓延し、それを退散させるため後醍醐天皇の命により当時の住持であった空円上人が七日七晩念珠繰りし百万回念仏を唱えた結果、病が治まったことから、「百万遍さん」と呼ばれるようになり当地の地名ともなりました。毎月15日には大念珠繰り法要が行われ市も立ち賑わいます。特に京都古書研究会主催で開かれる「秋の古本まつり」(会期は概ね10月末から11月初めまで)の会場となっていることでも知られています。南門を出ると向い側は京大キャンパスです。

京都発アイドルユニット「Purpure」パーピュアが出演する音楽フェスティバルが、3月22日京都円山公園音楽堂で開催されました。実は彼女たちメンバーの条件が、京都検定を持っていること!だそうです。京都のことをよく勉強し、PRすることを使命と...
23/03/2014

京都発アイドルユニット「Purpure」パーピュアが出演する音楽フェスティバルが、3月22日京都円山公園音楽堂で開催されました。実は彼女たちメンバーの条件が、京都検定を持っていること!だそうです。京都のことをよく勉強し、PRすることを使命として結成されたとか。わたしたち京都観光満足ガイド協会も、今回のイベントに後援させていただきました。会場では、東日本大震災復興支援チャリティーや、京都検定PRキャンペーンブースが設置され、ゆるキャラの「まゆまろ」や、京都観光アイドル「どすえちゃん」も登場し、和やかなステージが繰り広げられました。パーピュアは、これからメディアでの露出も増えていくと思いますので、皆さんも応援してくださいね。

住所

下京区中堂寺南町
Kyoto-shi, Kyoto
600-8813

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